誰かを助けるのに理由がいるかい?
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ゲーム好き。もしくは、FFプレイ者なら知っているであろう、有名なセリフですよね?
人によって、意見が異なることは端から承知です。助けるの理由なんてない。いや理由は必要なんだ!色々な意見があるとは思いますが、結論僕はタイトルにもあるように…
理由はない。けど条件による。
こう答えました。
もちろん適当に言っているわけでもなく、過去の経験や知見から学んだうえでの1つの答えです。
今日はそんな悟りに近い内容ですが、『誰かを助けるのに理由がいるかい?』という問いに真正面からぶつかり合いたいと思います。
誰かを助けるのに理由がいるかい?【結論いらない。けど条件による】
- 助ける理由とは何か?
- 誰でも助けるのか?
- どんな時に助けようと思うのか?
etc…
この問いに対して真剣に考えようものならば、様々なアプローチから物事を見る必要性があります。
僕は『助けるのに理由はない。けど条件による。』そう述べましたが、困っている人が目の前にいれば、助けようと思うのは当然かもしれません。
けど、必ずしもその動機に理由が関わってこないかと言われば、そうでもないと思っています。
なので、この『条件による。』という部分について深堀していきます。
【結論いらない。けど条件による】←条件によるとは?
そもそも助ける際に理由なんてない。←この状況がわかりやすい場面をあげるならば…
- 家族が助けを求めている
- 恋人、友人が助けを求めている
このような状況下なら助ける際に理由なんてないでしょう。けれど、もしこれがそうでもないならば…どうでしょうか?
具体例
僕は今電車に乗っている。満員電車でどこも座るとこはない。そんな状況下の中で、僕は座席に座っている。今日はとても体調が悪い。ほんと立っているのが億劫になるほどに。しかし、そんな状態の中、僕の座席の前に足腰の悪そうなおばあさんがやってきた、そしてつり革を掴み立っている。
何人か周囲の視線が僕に向く。こんな時『席をゆずるべきか?』。でも、今日は立っているのでさえ、億劫なぐらいしんどい。
でも、そんなこと周囲。ましてや目の前に立っているおばあさんは知らない。
・・・さあ、あなたはどうする??
ちと、極端すぎるかもですが、あなたは『理由もなく助けますか?』って話です。たぶん無理です。僕も当然無理です。
例え、助けるという選択肢を選んだとしても、そこには何らかの理由が働くと思っています。(マザーテレサレベルなら余裕かもww)
- 周囲に軽蔑の目で見られたくないから
- ほんとうは変わりたくないけど、高齢者ファーストの風潮があるから
- 席を譲らない自分が嫌だから
などなどの人によって生じる理由は様々でしょう。
上記の例は極端すぎるので、家族、友人、恋人なら違うのか?そう言われたら、もしかしたら席を譲ってあげない人なんかも多いかもです。
ただ上記の例は、『誰かを助ける際に理由はないのか?いや条件による。』という意見を明確化するにおいて、提示したまでです。
もし上記の例が、家が火事で家の中に家族が取り残されているのか?または知らん人の家が燃えていて、知らん人が取り残されている。なんて状況下の場面ならまた変わってると思います。
助ける・助けられるの双方間の人間関係で決まる
結局『誰かを助ける際に理由はない。けど状況による。』と述べましたが、例え助ける相手が家族であれ恋人であれ、例外はあります。
結局僕自身、『誰かを助ける際に理由はいらない』←これが成立するのって、想いの強さで決まると思うんですよね。
もっと詳しくいうと、助ける・助けられるの双方間の関係性。
つまり、誰かを助ける際に理由もなく、自分の命もかえりみずに突っ込んでいくのって、双方間の絆だったり、想いの強さで決まると僕は思うわけです。
この人は絶対に失いたくない。いなくなったら無理。みたいに、理由よりも感情が先行する状態。
どう思いますか?
てな、感じでまとめると…
- 助ける・助けられるの双方間の関係性
- お互いの想いだったり、絆の強さ
- 理由よりも感情が先行する状態
誰かを助けるというのは…『情けは人の為ならず』である!
ここまでで、『助けるの理由はいるのか?いらないのか?』みたいな展開で話を進めてきましたが、多方面からの意見も紹介したいと思います。
ゆっくり、いそげの著者がら学ぶ『支援とは?』
誰かを助けるのに理由はいるの?いらない?という問いで話を進めてきましたが、多方面からの視点で見ると、そもそも論から間違っていることに気付きます。
そんな気付きを与えてくれたのが、上記『ゆっくり、いそげ』の著者影山氏。彼は支援、いうならば助けるという行為は、『情けは人の為ならず』であるといいます。
つまり、自分が誰かを助けるという行為は後に自分にもかえってくるし、もっというと助けた誰かが、今度はそのタスキを繋いでいくであろう。
こういうことです。
誰かを助けるということは、助けられることよりも価値がある
支援することは、支援されることなのだ。
僕たちは助けるのに理由いる?いらない?の視点で物事を見がちですが、結局誰かを助けるということに理由がどうこうではなく、誰かを助けたという事実が大事なわけです。
自分が誰かを助けた。その助けられた相手は、今度は別の誰かを助けた。その助けられた相手が、今度は自分が困っている時に助けてもらえた。
誰かを助けるということは、助けられることよりも価値があるとは、こういうことです。
まとめ:困っている人がいれば、助けよう!
ここまで色々と話してきましたが、あなたはどう思いますか?
もし、意見があればコメント欄で教えてください。
ただまとめとして言えることは、誰かを助ける際に理由はあってもいい、けどの行いが良い連鎖となり、助けの輪として繋がっていけばいいんじゃないでしょうか?と、僕は思います。
なので、自分が死なない程度であれば困っている人は助けてあげてください。
本日は以上です。
そんじゃ、さいなら~